吐き溜め日記。

つらつら書きます。

お人形の話。

 

 

 

どうも、毎回書き出しの文に悩みます。

メールの最初の文章も悩むタイプです。たおです。

 

 

今回は今までも度々出てきてたお人形の話です。

 

  

幼い頃の苦痛

ごく普通のどこにでもいる子供だった、

強いて言うならこの時からお絵かきが好きで、

見せると褒められるのが嬉しくて、暇があれば何か描いてた気がする。

ただその頃凄く苦手な事があった。  

それは長い休みになると行く、

祖母と叔母が住んでいる家に私一人で何泊かのお泊り

 

この祖母が、ただでさえ癖の強いうちの親戚陣の中でも

1~2を争う扱いの難しさ、ざっくり書くと、

・癇癪もちで怒ると手が付けられない

・子供にも自分と同じスピードを求める

・嫌味、貶しは当たり前

・母親の悪口を私に聞かせる

後に気付いた事ではあるけど、更にここにアル中が追加される。

そんな中での唯一の救いは叔母だった。

叔母はほんとに祖母から産まれたのか…?

と思うほどおっとりしていて、いつもにこにこ私の話を聞いてくれた。

 

ただそんな叔母もずっと家に居るわけじゃない

日中や、叔母の居ない夜は祖母の逆鱗に触れないように過ごす。

だがそんな努力も理不尽な癇癪の前では無力なもんで、

スイッチが入ったらじっと耐えるしか当時の私にできることはなかった。

ここで泣いてはいけなかった。泣くと更に酷くなった。

怒鳴るとかじゃなく何言ってるのか分からない、奇声だ。

これが幼い私にとってはとにかく怖かった。実際限界がきて

母親に泣きながら電話して迎えに来てもらった事もある。

そんなことがあってもお泊りは、私が小学生に上がってしばらくするまで続いた。

年々、顔色を伺って怒られないように愛想よくする能力が上がっていった。

 

年に数回行われるお泊り修行のおかげで得したこともある

小さい頃から母親にも祖母にも、

「愛想よくしてなさい」と言われ続け

言われた通りにしていた事で、人見知りがかなり改善された

 

おかげで友達も大人しい子から活発な子まで幅広くいた。

この時は大人の言う事は聞いとくもんなんだな、と思った。

小学校3年生ぐらいになると修行もいつの間にかなくなった。

つかの間の休息。とは言え私の母、

実は祖母をちょっとマイルドにした感じなので

怒りスイッチは回避するようにしていた。祖母に比べれば簡単だった

そんな比較的平和な時期を過ごしていた小学6年生のころ、

叔母が結婚して家を出ていく事になって

祖母が同じマンションに部屋を借りて

眠るときだけ自分の家に帰るような形でこっちに来ることになった。

 

祖母が来てからは修行の日々に逆戻りした。

ただ私も怯えるだけだった小学校低学年の頃とは違う

顔色を伺うのも上手くなっていたし、何より聞き流すという事を覚えていた。

スイッチが入って何を言われてもへらへらしてれば

意外と簡単に乗り越えられた。そのまま中学1年まで過ごした。

その間にいとこが産まれ、

兄弟が居ない私にとっては弟ができたようで激カワである

その頃から祖母の当たりが異常に強くなった。

まぁ歳いってからの孫の方が可愛いかったんだろう

そんなある日、祖母とうちの家族で居た時、

 

「あんたはいつもへらへらして何考えとるか分からんくて気味が悪い」

「ママは楽でいいけど可愛げはないよね。」

 

とうとう言われた。

父親に至っては同調するでもなく、守るわけでもなく、無言だった。

衝撃的すぎて涙どころか声も出なかった、

この頃まで私はただ大好きな両親と祖母に

褒めて欲しくて、愛してほしくて、それだけの為に

自分なりに求められる期待通りに努力していたつもりだった。

いっその事ここでグレとけば良かったのかも知れない。

ただその時は何故か

”私が駄目だから愛されないんだ” と言う思考に着地した。

たった一言「ごめんね。」とだけ言って笑っていた。

 

感じる違和感

グレる事も、反抗することも出来なかった私は胸に違和感を抱えたまま

両親や祖母の期待通りになる様、努力し続けていた。

あんな事を言われても私はいつか私自身を見てくれる。

頑張ったねって褒めて貰える。そう信じてた

無条件に与えられる愛情を諦められなかった。

今になって考えれば愛される努力をしている時点で

無条件の愛情ではない。そんな事には気付かなかった。ポンコツ

 

中学2年の頃、祖母と母親が大喧嘩した。

私はたまたま来ていたいとこを自分の部屋に連れて逃げた。

物音や声が聞こえないように音楽をかけて、

気がまぎれる様にいとこの好きなアンパンマンを描いた。

自分にとってトラウマになっている

ヒステリックな怒鳴り合いからいとこを守る事に必死だった。

 

喧嘩が終わった頃にはいとこはすっかり夢の中だった。

怒りが収まらず荒れ狂う祖母は叔母が一旦祖母の家に連れ帰った。

自分の部屋から出てぐちゃぐちゃになったリビングに行くと

母親に泣きながら

 

「あんたは私の娘なのに私の味方せずさっさと逃げたよね。」

 

と言われた。本当に恨めしそうな声だった。

もう目が点である。私にとっては最善策をとったつもりだった。

ヒートアップすれば暴れることは分かってたし

そんな危険な所にいとこを居させるなんてとてもじゃないけど出来なかった

母親に適当に返事して部屋を片付けながら

 

この人に愛されるには常に都合のいい味方で

居て母親を守らないといけないのか

 

と思った、泣きたいのはこっちだ。

いとこを叔母に引き取って貰った後、

そんな人に愛される為に

必死だった自分自身が急に惨めに見えて

一人になった部屋で手首に傷を付けた。人生初リストカット

大して深くもない傷をぼんやり眺めながら

”あぁ私の人生お人形みたいだな”と思ってちょっと泣けた。

 

 

あの後祖母と母親は絶縁状態。

法事なんかの親戚が集まる用事には私が行くし

祖母とは定期的に連絡が来れば会いに行くが相変わらず。

多分一生このままだろう。

 

私自身はと言うと家を出るタイミングは何度もあったが

今現在も実家に住んでいるし、無条件の愛情への憧れは強い。

親から与えられる愛情に諦めがつけられていないままだ。

人の顔色を伺い、期待されることがあればその通りに行動するので、

まだ多分心のどこかで誰かに褒めて欲しい、自分自身を愛してほしいと

希望を持った小さいままの私が生きているんだろう

今でもお人形の様な人生は辞められていない。

 

ほんとは辞めたいけどお人形の様にしていても親にすら愛されなかった私が
自分自身を見せて誰かに愛してもらえるとはとてもじゃないけど思えない。
愛される自信がとにかく無い。

 

”お人形”という単語は、あの時思ったことをそのまま書いてるので

何か他に正しい用語とかがあるのかも知れないんだけど
どうやって知らべればいいのかもよく分からず、
そのまま現在まで放置している。

 

この生き方も前回の”お金の話”と一緒で

結局辞められないんだろうなぁ。とか考えてると

これでいい、と割り切ったはずなんだけど

ふとした瞬間にむなしくなるのだった。

 

 

 

 

おしまい。